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「どぶろく」と聞いて、すぐにあの白く濁った姿を思い浮かべられる若い人は、今どれくらいいるでしょうか。
コンビニにもスーパーにもほとんど並ばないこのお酒は、名前すら聞いたことがない、という方も少なくないようです。
クラフトビール、ハイボール、ナチュールワイン、レモンサワー選択肢があふれる今、どぶろくはどこか遠い、おじいちゃんの蔵の奥にしまわれているような存在に感じられるかもしれません。
しかし、このどぶろくこそ、日本酒のもっとも素朴で、もっとも古い姿です。
透き通った清酒よりずっと前から、この国の人々が祭りの夜に、神への祈りに、家族との節目に、囲んできた「お酒の原型」。
今回は、若い人にこそ知ってほしいどぶろくの奥深い世界を、その起源である「口噛み酒」から、神事との結びつき、人気アニメとの接点まで含めてたっぷりお届けします。

どぶろくとは、米・米麹・水を発酵させただけで「漉す(こす)」工程を経ていないお酒のことです。漢字では「濁酒」「濁醪」と書き、米粒や麹の固形分がそのまま残ったどろりとした白濁色をしています。
漉して透明にしたものが私たちのよく知る「清酒(日本酒)」、漉さずにそのまま味わうのが「どぶろく」。
この一手間の差が、まったく違う飲み物を生み出しているのです。
ちなみに、市販されている「にごり酒」とどぶろくは見た目がよく似ていますが、にごり酒は目の粗い酒袋で一度漉す工程を含むため、酒税法上は「清酒」に分類されます。
一方、漉さないどぶろくは「その他の醸造酒」扱い。
同じ白濁でも、法律上はまったくの別物なのです。
味わいは、米そのものの甘みと、麹由来のうっすらとした酸味、そして発酵のフレッシュな炭酸感が混ざり合った、素朴で力強いもの。
「ヨーグルトのよう」「甘酒に近い」と表現されることも多く、現代の感覚で飲むと意外なほど飲みやすいことに驚く人もいます。

どぶろくのルーツを辿っていくと、文字通り「口」のなかまでさかのぼります。
それが、口噛み酒(くちかみざけ)です。
米などの穀物を口に入れて噛み、それを器に吐き出して、自然発酵させて造るお酒。
なぜそれでお酒ができるのか? ポイントは、唾液に含まれるアミラーゼという酵素です。
米のデンプンは、そのままでは酵母が分解できません。
けれど、口の中で噛んで唾液と混ぜれば、アミラーゼがデンプンを糖に変えてくれる。
糖さえできてしまえば、あとは空気中の野生酵母が糖を食べてアルコールへ。
つまり、麹菌の代わりに「ヒトの唾液」が酵素源として働いていたわけです。
今でいえば、麦芽の役目を唾液が担っていたとイメージするとわかりやすいかもしれません。
驚くべきことに、現代日本語で「お酒を造る」を意味する動詞「醸す(かもす)」は、この「噛む(かむ)」が語源だといわれています。
文字通り、噛むことから酒造りは始まったその記憶は、今も日本語の中に静かに息づいているのです。
日本列島での口噛み酒の歴史は古く、縄文時代後期から弥生時代の頃にはすでに造られていたと考えられています。
米作りが伝わり、その米が「神様への捧げもの」として尊ばれた時代、人々はもっとも丁寧な方法で、もっとも貴重な飲み物を醸していました。
そしてここからが、どぶろくと口噛み酒のいちばんロマンチックな部分。
古代において、口噛み酒を造るのは誰でも良かったわけではありません。
伝承によれば、口噛み酒を造ることができたのは、神社に仕える巫女(みこ)それも、大病を患ったことのない、若く健康な未婚女性が望ましいとされていました。
理由は二つあるとされます。
ひとつは、健康な若い女性の口内には安定した菌のバランスがあり、雑菌に負けない美味しい酒ができると信じられていた。
もうひとつは、神に捧げる御神酒は、造り手自身が穢れを知らない「清らかな存在」であることが求められたから。
神事の中心にいた巫女は、その両方を満たす理想的な存在だったのです。
そんな巫女たちが醸す口噛み酒は、別名「美人酒(びじんしゅ)」とも呼ばれていたといいます。
神への祈りを米とともに噛みしめ、唾液に込めて壺の中で熟成させる、そう聞くと、神話的でどこか映画的な光景が浮かんできます。
新海誠監督の大ヒット映画『君の名は。』で、ヒロインの三葉が宮水神社の巫女として妹の四葉と口噛み酒を醸すあのシーン。
あれは創作の中の出来事ではなく、実在した日本古代の酒造り文化を丁寧に描いたものなのなんです。

現代では当たり前のようにある「推し」という言葉。
実は、古代の口噛み酒の世界にも、それに近い感覚があったといわれています。
御神酒として捧げる酒は、「誰が噛んだか」がとても大事でした。
あの神社の、あの巫女さんが噛んだ酒、というだけで特別な価値が生まれる。
「美人酒」という別名にもにじむように、噛み手の若さや美しさ、神聖さが酒の格そのものを決めていたのです。
飲み手の側からすれば、「自分はあの巫女さんの口噛み酒が一番好きだ」と語ることは、現代でいう「推し活」にどこか通じる感覚だったのかもしれません。
神事と結びついた荘厳な世界でありながら、その奥に「誰の酒か」という人間的な熱量が確かにひそんでいた。そう考えると、千年以上前の人々がぐっと身近に感じられてきます。
だが実際口噛みをする女性はたまったものではなかったそうで、飲める量のお酒を作るのですから、米も大量に必要です。
酒を作るのには大雑把に言って10Lの醪を作るのに2kgの米と1kgの麹が必要です。
2kgの蒸米をドロドロになるまで噛むのですから相当な重労働でしたでしょう。
口噛み酒というと『君の名は。』が真っ先に挙がりますが、もう一作、発酵好きの間では必ず名前が出る作品があります。
それが、石川雅之による『もやしもん』。
「菌が肉眼で見える」主人公・沢木惣右衛門直保が、東京の某農業大学を舞台に騒動を巻き起こす学園ものでありながら、発酵や醸造の知識が驚くほど本格的に詰め込まれた異色の漫画・アニメです。
この作品で口噛み酒を醸すのが、サブキャラクターの美里薫(みさと かおる)。
樹研究室に出入りする農学部の先輩で、相棒の川浜とコンビでドタバタを繰り広げる、軽薄だけれど憎めない男です。
彼は自称「口噛み酒の伝承者」。
日本酒の密造に失敗して借金を背負った末、なんと口噛み酒造りに挑戦するという、漫画ならではの展開を見せます。
『もやしもん』が秀逸なのは、デンプンが糖になり、糖がアルコールに変わるという発酵のメカニズムを、ギャグを交えながらきちんと描いている点です。
さらに大学の収穫祭では「アイドルの口噛み酒」がオークションに出されるという回もあり、古代の「美人酒」文化と現代のアイドル・推し文化を一気に地続きにしてしまうネタも飛び出します。
巫女信仰の延長線上に、令和の「推し活」がある。
その不思議な連続性を、コミカルに、しかし本質を突いて描いてみせたのが『もやしもん』なのです。

時代が下り、麹菌を使った酒造りが定着すると、口噛み酒は次第に神事の中だけの特別な存在になっていきました。
麹の力で安定して造れるようになった酒のうち、漉さずにそのまま飲むものが「どぶろく」として、各地の農村に根を下ろしていきます。
平安時代の文献にもすでにその名が見え、江戸時代までのどぶろくは、農家が自分たちで仕込んでは、正月・お盆・彼岸・祭り・結婚式・葬式・新築祝いといった人生の節目で振る舞う、生活に欠かせない酒でした。
「ハレの日の一杯」として、地域の人々をつないでいた存在だったのです。
転機となったのは1899年(明治32年)。
税収確保を目的とした酒税法の改正により、酒の自家醸造が全面的に禁止されました。
これによって、家庭で気軽に仕込んで飲む文化は急速に失われ、どぶろくは「免許を持った酒蔵が造るもの」へと姿を変えていきます。
現代の若い世代にとってどぶろくが「遠い存在」に感じられる最大の理由は、おそらくこの法律の影響です。
120年以上にわたって、家庭で造ることも飲むこともできない時代が続いたわけですから、文化として薄れてしまうのは当然のことでした。
それでも近年、状況は少しずつ変わってきています。
「どぶろく特区」と呼ばれる制度のもと、特定の地域では農家が自家製どぶろくを造ることが許されるようになり、各地で個性豊かな銘柄が次々と復活しています。
クラフトビールやナチュールワインを愛するような感覚で、若い世代が楽しめるおしゃれなどぶろくも増えてきました。
スパークリングのようにシュワっと弾けるもの、ヨーグルトのように酸味の効いたもの、麹の甘みを前面に出したものなど、どぶろくは今、ようやく現代の食卓に戻ってこようとしています。
どぶろくは、ただの「白く濁ったお酒」ではありません。
縄文・弥生の人々が米を噛み、巫女たちが祈りとともに神に捧げ、農村が祭りの夜に分け合い、明治の法律でいったん遠ざかり、そしてまた令和の今、私たちのもとに戻ってきている、そんな何千年もの物語が、あのとろりとした一杯のなかに凝縮されています。
『もやしもん』の美里が遊び心で醸し、『君の名は。』
の三葉が祈りを込めて噛んだ、その延長線上に、現代のどぶろくはあります。
次にどこかで「どぶろく」の文字を見かけたら、ぜひ一度手に取ってみてください。
その白い濁りの奥には、巫女たちの息づかいから現代のクラフト文化までが折り重なった、長い長い物語が静かに眠っています。
知らない誰かの「推し」だった一杯が、あなたの新しい「推し」になるかもしれません。
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この記事を書いた人
旨い酒を作りたいという思いで、岸和田の地にて酒蔵を始めました。また、酒造りの傍ら、古美術商も営んでおり、ぐい呑みなどの酒器を集めています。