年齢確認
あなたは20歳以上ですか
「醸す(かもす)」という日本語のルーツをたどっていくと、ある時代の人々が、文字どおり米を「噛んでいた」という事実にたどり着きます。
それが口噛み酒(くちかみざけ)。
米やイモ、木の実などを口に入れて噛み砕き、唾液と混ぜたものを器に吐き出して、自然の野生酵母に発酵を委ねる。 人類が最初期に手にした醸造酒のひとつであり、日本酒やどぶろくの遥かなる祖先にあたるお酒です。
以前【どぶろくの世界へようこそ】でも軽く触れましたが、口噛み酒は単なる「日本酒の前段階」ではなく、世界中に分布していた壮大な発酵文化の一部でした。
今回はこの口噛み酒そのものに光を当てて、その起源、神事との結びつき、漫画『はじめ人間ギャートルズ』に登場するサルザケとの違い、そして実際に作るとなったときの想像を絶する過酷さまで、たっぷりご紹介します。

日本人にとって口噛み酒は「日本酒・どぶろくの先祖」のような存在ですが、実は世界各地に存在していた発酵法です。
確認されているだけでも、古代日本、沖縄、奄美群島、アイヌ社会、台湾の高砂族(先住民)、そして中南米やアフリカの一部地域まで。
とくに中南米では、大航海時代に白人と接触する以前、トウモロコシやキャッサバを原料にした口噛み酒が広く飲まれていました。
今でもアマゾン低地やアンデス高地では作られているといいます。
発生地は明らかではありませんが、デンプンを含む植物食を主にしていた東南アジアから南太平洋域が有力とされ、米を原料とする口噛み酒は、稲作文化との融合点であるマレーシアあたりを発祥地と見る説が有力です。
日本列島での米の口噛み酒は、縄文時代後期以降に行われていたと考えられています。
文献としては『大隅国風土記』(713年以降)の逸文にはっきりと記されており、これが日本における米の酒の最古の記録のひとつ。
国税庁が公開する「日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り」調査報告でも、麹を用いた酒の最古の記録として『播磨国風土記』(716年)が挙げられる一方、それ以前の文化的水脈として口噛み酒が位置付けられています。
つまり日本酒のような麹酒の系統と、口噛み酒の系統は別ルートで日本列島に存在していたということです。

意外に思われるかもしれませんが、口噛み酒は必ずしも一人の巫女が黙々と造ったわけではありませんでした。
『大隅国風土記』の逸文を写したとされる鎌倉時代の百科事典『塵袋(ちりぶくろ)』には、こんな描写が残っています。
ある一軒の家に水と米を用意して、村中にふれて回ると、男女が一カ所に集まる。みんなで米を噛んでは「酒槽(さかぶね)」に吐き入れ、それぞれ家に戻る。やがて酒の香りが立ちのぼってきた頃、また皆で集まって、噛んで吐き入れた者たち同士でその酒を飲むこれを「口噛みの酒」と呼ぶ。
ここに描かれているのは、巫女ひとりの神秘的な儀式ではなく、村人総出のいわば「醸し祭り」です。
男も女も区別なく米を噛んでいたという記述からは、日常の延長線上にあった素朴な集落の習慣としての口噛み酒の姿が見えてきます。
私たちは「口噛み酒=巫女が一人で噛む神聖な酒」というイメージを持ちがちですが、それは数ある口噛み酒のうちの一面にすぎません。
祭りの夜、村人がわいわい集まって米を噛み、できあがった酒をまたみんなで囲んだ。
それが大隅国(現在の鹿児島県東部)に伝わる、もう一つの原風景です。

一方で、神に捧げる御神酒としての口噛み酒は、より厳粛なものでした。
特に色濃く残っていたのが沖縄です。
沖縄諸島では蒸留酒の泡盛が普及する以前、人の唾液による発酵を利用した口噛み酒が祭事の中心にあり、近代までごく当たり前に作られていました。
身を清めた女性たちが、塩で歯を丹念に磨いてから、生米や炊きたての米飯を噛んで容器に吐き出す。
そこに少量の水を混ぜ、石臼で挽いてどろどろにしたうえで甕に入れて発酵させる。
こうしてできた酒は、地域ごとにウンサク(ウンシャク)、ミキ、ミチ、ミシャグなど、さまざまな名前で呼ばれ、すべて「神酒(みき)」としての意味を担っていました。
驚くべきことに、伊平屋島や宮古、八重山の一部では昭和10年代初頭、つまり1930年代までこの口噛み酒の儀礼が生き続けていたといわれます。
「神聖な巫女が造る古代の酒」というイメージから一歩踏み込むと、口噛み酒は人類が長く現役で使ってきた、けっこう私たちに近しい技術だったことが見えてきます。
文献の中の伝説ではなく、ほんの数世代前の人々の手の中で実際に「醸されて」いたのです。

口噛み酒の話をすると、必ず一定年齢以上の方が思い出すのが、園山俊二の漫画『はじめ人間ギャートルズ』に登場するサルザケです。
アニメ第127話「さる酒のんでウッホッホ!の巻」では、ギャートルズ平原に住む原始人たちが、サルやゴリラに果物を食べさせ、彼らに噛ませて吐き出させた液体を発酵させ、それを飲むという展開が描かれます。
「とうちゃん」がサルザケを飲んで性格が一変してしまうエピソードは、見た方ならきっと忘れがたいシーンでしょう。
ただ、本来の言葉としての「猿酒(さるざけ)」は、ちょっと違うものを指します。
『小学館 日本国語大辞典』などを引くと、猿酒とは「サルが山中の木のうろや岩の凹みなどに蓄えておいた木の実や果実が、雨や露などと混じり合って自然に発酵し、酒のようになったもの」と定義されています。
別名「ましら酒」とも呼ばれ、猟師や木こりが山中で偶然見つけて飲んだ、という伝説の酒です。
秋の季語にもなっています。
つまり、本来の猿酒は人の唾液を介さない、純粋な野生発酵による果実酒。
ヤマブドウやサルナシ(猿が猿酒に使ったとされることから名づけられた)が落ちて自然発酵したもの、というイメージです。
ミードができたルーツによく似ています。
水たまりに落ちたハリミツに天然酵母が降り注いで発酵しお酒になったものを飲んだ人が発見したとかしないとか。
ちなみに「野生のサルにそもそも食料貯蔵の習性はない」との指摘もあり、サルが意図的に造った酒という説明は実在自体が疑わしい、伝説の域を出ない話でもあります。
『ギャートルズ』のサルザケは、この「自然発酵の猿酒伝説」と、「ヒトが噛んで吐き出す口噛み酒」の発想を、ユーモラスに合体させたフィクション、と考えるとしっくりきます。原始時代の風景にぴったりはまるサルザケは、ギャグの皮をかぶった本物の発酵史の入り口でもあるのです。
ここまで読んで、「これなら自分でも作れそう」と思った方がいるかもしれません。
実際、2004年には、東京農業大学教授(当時)の小泉武夫氏が研究室の女子学生4名に口噛み酒の再現実験を行わせています。
結果は、3日目の夕方から発泡が始まり、10日目にはアルコール度数9%超、酸度9.8という、立派ながら強烈に酸味の効いた酒が完成したそうです。
「意外と簡単じゃないか」と思いきや、ここからが本題です。
クラフト醸造酒のサイズ感で考えてみましょう。
たとえばどぶろくの醪(もろみ)を10リットル仕込むのに、おおむね蒸米2kgと米麹1kgが必要です。
麹のない口噛み酒では、この2kgの蒸米を“ぜんぶ”口で噛んでドロドロのペースト状にしなければならないことになります。
2kgといえば、コンビニのおにぎり20個分以上。 これを黙々と咀嚼するのは、想像してみるとかなりの重労働です。
小泉氏の実験でも、米を噛んでいるうちに耳の側、つまり「こめかみ」が痛くなったと体験者がコメントしており、これが「こめかみ」という言葉の語源ではないかという推測まで残されています。「噛める米=こめかみ」というわけです。
沖縄の事例にあった「塩で歯を磨いてから噛む」というのも、衛生管理の意味でもとても理にかなった作法で、ここまで徹底してはじめてまともな口噛み酒が成立した、ということでもあります。
しかも、これは1回限りで終わる作業ではありません。
村祭りごと、神事のたびに繰り返されました。1人で全量を噛むのは現実的ではないので、『大隅国風土記』のように村人総出で噛む方式や、沖縄の祭事のように複数の女性が交代で噛む方式が取られたのは、ごく自然な選択だったと言えるでしょう。
「酒造り」という言葉から想起される、しずしずと米を蒸し、もろみを優しく見守る現代的なイメージとは、まるで違う風景です。
口噛み酒の現場は、もっと泥臭くて、身体的で、共同体的な営みでした。

口噛み酒が次第に表舞台から姿を消していったのは、麹菌を使う酒造りが定着していったから。
麹であれば人の口を介さず、より大量に、より安定して米のデンプンを糖化できます。過酷さと不安定さを抱えた口噛み酒に対する、技術的な“解答”が麹だったわけです。
それでも、「醸す(かもす)」という日本語そのものが、口で「噛む(かむ)」という所作と同根語であるとする説は根強く支持されています(諸説あり、別系統とする立場もあります)。
麹の力で何リットルでも仕込めるようになった今でも、私たちは「酒を醸す」と口にするたびに、口噛み酒の時代の身振りを言葉のなかで静かに反復しているのかもしれません。
国税庁の資料でも、日本酒の歴史は『大隅国風土記』の口噛みノ酒と『播磨国風土記』の庭酒(にわき/カビの酒)が並び立てられ、両者は別系統の流れとして整理されています。
現代のどぶろくや清酒はおもに麹の系統を継ぐお酒ですが、文化的な水脈としては口噛み酒の身体性が確かに流れ込んでいるのです。
現代のクラフト醸造酒どぶろく、クラフトサケ、その他の醸造酒は、テクノロジーと衛生管理に支えられた精密な発酵の世界です。
当蔵でも、IoTで温度や発酵経過を細かく見守りながら、最後の仕上げは重力に任せて醸しています。
それでも、その遥か上流をたどっていくと、米を噛み、神に捧げ、村人と分かち合った人々の姿に行き着きます。
一杯のクラフトどぶろくの白い濁りの奥には、東南アジアから日本列島、沖縄、そしてアマゾン低地まで広がっていた壮大な口噛みの文化が、静かに息づいています。
『はじめ人間ギャートルズ』のサルザケに笑った夜のように、口噛み酒の話はどこかおおらかで、それでいて深く人間的です。
次にクラフト醸造酒のグラスを傾けるとき、ぜひ一度、その「最初の一杯を噛んでいた人々」のことを思い浮かべてみてください。
何千年も繰り返されてきた「噛む」という所作が、いまそのグラスの中で、確かに醸されています。
シェア
この記事を書いた人
旨い酒を作りたいという思いで、岸和田の地にて酒蔵を始めました。また、酒造りの傍ら、古美術商も営んでおり、ぐい呑みなどの酒器を集めています。